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いまは転売に対する風当たりが強いのに、本せどりを始めるってのもなぁ。
そう思っている方も、いるかもしれません。
そこで、個人的に思う「本せどりの社会的意義」について書いてみたいと思います。
加えて世の転売ヤーに対する批判について、疑問に思うところも少し書こうかと考えています。
「転売ヤーを生み出しているのは、定価で売るべきだと主張している人たち」という話になっていますので、気に食わない方々は怒り狂いながらお読みください。
でも、同時に「おまけ」として「転売ヤーを駆逐し、絶滅させる方法」についても触れておりますので、ご容赦くださいませ。
「ボクはこう思う」という話なので、ぜんぜん「御意見無用」でございますわよ。
本せどらーはサイバー御用聞き
本せどりにかぎらず、せどり全般もそうなのですが、ボクとしては「サイバー御用聞き」だと思っています。
昔から酒屋さんとかが「何かいるもの、ありませんか?」と各家庭で聞いて回って、醤油なりお酒なりをお届けするのが「御用聞き」ですね。
そんな御用聞きのインターネットバージョンが、いわゆる「せどり」だというわけです。
実際には個別に伺う前に、先回りして仕入れるんですけどね。
具体的な状況の説明のために、本せどりで「例えば」の話をしてみることにしましょう。
とあるレア本があったとして、それを探している人が全国に、まばらにいたと考えます。
そして、あなたがその本を、近所の古書店で見つけた場合の話です。
欲しい人のほとんどは、あなたの近所にある古書店まで探しに来ることはできません。
ですから、その本をあなたが仕入れてAmazonに登録してあげれば、全国でそのレア本を探している人がめでたく買えるわけです。
買えた人も、売った本せどらーも、手数料が取れたAmazonもトクをします。
いわゆる「三方よし」というヤツです。
それどころか、古書店もトクをしているので「四方よし」です。
これが、言ってみれば「本せどりの社会的意義」というヤツかな、という感じですね。
そんなわけで、少なくとも「本せどりについては、他人からとやかく言われる筋合いはないんじゃないかな」と、個人的には思っています。
転売ヤーと定価信仰
せどりと言えば、転売についての話ということになるので、嫌われ者の「転売ヤー」についても少し書いておきましょう。
転売ヤーがけっこうエグいことをやっているというのは、さすがにボクも分かっています。
ただ彼らを批判する側の意見に対しても、「え?そーなの?」と疑問に思うところがあります。
まず一番に感じるのは、批判する側の人が持っている「定価信仰」についてです。
多くの人が「転売屋のせいで、定価で買えない」というようなことを主張しているようですね。
でも定価というのは、すでにほどんどの商品には存在していません。
定価があるのは税収確保のために認可制になっているタバコと、書籍・CD・新聞・雑誌などの著作権が絡む商品だけです。
よく騒がれるおもちゃなどについては、「そもそも存在しない定価を、いまでも存在すると信じている人」が多いようです。
そして、そういう人たちが「定価じゃない!」と騒いでいるわけです。
彼らは「信者なので、何を言っても通じない」という部分があるように感じられます。
転売ヤーの稼ぎの源泉
先ほども書いたように、定価というのはすでに、ほどんどの商品に存在していません。
要するに、だいたいは「希望小売価格」でしかないという話です。
とは言え、たいていのお店は、希望小売価格か、それ以下で商品を売ります。
「本当は、もっと高くても売れることがあるにもかかわらず」です。
人気商品が希望小売価格で売られると、実際に売れるだろう価値との差が生じます。
いわゆる「利ざや」と呼ばれるものであり、これが転売屋の稼ぎの源泉です。
利ざやがあれば、自由経済のもとでそれは埋められる運命にあります。
アービトラージ(裁量取引)と呼ばれるものです。
いうなれば、「人気商品なのに、お店が希望小売価格で売る」ということが、転売ヤーが跋扈する原因を作っているわけです。
ちなみに、「お店が悪い」と言っているわけではありません。
ただ、起こっている現象を説明しているだけです。
なぜお店は希望小売価格以下で売るのか
さてでは、なぜ、お店は人気商品でも希望小売価格で売るのでしょうか。
それは、「定価信仰」の信者が批判するからでしょう。
「あそこの店は人気商品だと定価で売らず、価格を釣り上げてカネに汚い!」という批判です。
このような現象は、メーカーについても言える話です。
つまり、「メーカーの側も人気商品だと分かれば、そもそもの希望小売価格も上げて、卸値も高くすることができるはず」なのです。
しかし、これについても「定価信仰」の信者の批判が予想されます。
評判というのは社会的な資産であり、毀損すると面倒なため、お店もメーカーも人気商品だからといって価格の釣り上げは行いません。
めでたく「信者の勝利」になったわけですね。
けれどもその勝利は、かりそめのものでしかありません。
利ざやが大きくなると、転売屋がその間に入ってくるからです。
ちなみに、メーカーが価格を高くするのを妨げていることによって、別の不具合も生じています。
それは、「人気商品の品薄を招いている」ということです。
なぜなら適正な利益が得られれば、人気商品を量産する体制も作りやすくなるのに、それが阻害されているからです。
「お金を払えば買える」という平等性
「おもちゃが普通の値段で買えないと子供がかわいそうじゃないか」という論評もあるようです。
ただそれは、「お金さえ払えば、誰でも差別されることなく買える」という平等性を保つうえで出てくる副作用だと言えるでしょう。
性別や人種によって、「オマエには売らない」とするのは差別ですよね。
でも、「誰にでもタダで配る」というわけにもいきません。
適正な平等さを目指した結果として落ち着いたのが、「お金さえ払えば誰でも買える」という状況なのではないでしょうか。
そもそも「人気商品を安く買いたい」というのは、「買えればラッキーだ」というだけの話で、自由経済の社会では一般的には成り立ちません。
人気が出ると需要と供給のバランスが崩れ、価格が上がるのが当然だからです。
また「お金がない人が買えない」というのは、平等には反しません。
なぜなら、お金がない人でも、お金を稼ぐこと自体を妨げられているわけではないからです。
結果の平等ではなく機会の平等、というヤツですね。
転売を禁止するのは基本的にありえない
「転売などというものは、すべて禁止すべきだ!」
そう思っている人もいることでしょう。
実際、コンサートなどのチケットについては、高額での転売が禁止されることになりました。
しかし、対応がなされたのは一部の商品だけです。
なぜでしょうか。
それはたぶん、「自由経済の活動と矛盾しているから」だと思われます。
そもそもメーカーから仕入れてお店で売るという「小売」という商行為自体が、転売以外の何ものでもありません。
店舗で買ったものを売るのが転売なら、一般の人がフリマアプリでものを売るのも転売です。
古本屋やリサイクルショップも、やっていることは転売ですね。
パチンコやパチスロをやる人は、ほぼ全員が特殊景品を換金しているでしょうが、それも転売です。
転売目的で買い占めなどをするのが「悪い転売」だとしても、そのことを特定するのは、かなり困難です。
なおかつ買い占めというのは結果として起こっていることで、一人だけ、あるいは結託した集団だけで買い占めがなされているケースは極めて稀でしょう。
また、もし転売屋を禁止できて「並べば買える」状況が作り出せたとしても、今度は「ヒマな人だけが買える」という不平等が生じることになります。
とは言え実際には、お金持ちがバイトを雇って並ばせることになるでしょうけれども。
つまり、影に隠れることになるだけの話です。
「定価」は復活しない
もしかすると定価信仰の信者さんの中には、「定価を復活させよ」と主張される人もいるのかもしれません。
以前は、「定価」と呼ばれるものがありました。
けれども、それが自由な競争を阻害すると考えられたために、オープン価格やら希望小売価格という話になったわけです。
そのため普通に考えて、定価が復活することはかなり考えにくいです。
要するに定価の肯定は、自由経済の否定とつながっているわけです。
もし人気商品の価格が釣り上がることが嫌なら、社会主義や共産主義の国に帰化した方がいいかもしれません。
とは言え「配給」で得られる商品というのは、競争力を失った味気なく魅力の乏しいものになることでしょう。
そのことは、すでに歴史的に証明ずみの話だと思います。
「転売ヤー憎し」の裏側
なぜ、転売屋は嫌われるのでしょうか。
「利益のためには、なりふりかまわずにふるまうのが見苦しいから」というのがあることくらいは、ボクだって分かってます。
とは言っても、それ以上の憎悪が世間で渦巻いていることはまちがいないでしょう。
おそらくそこには、「楽をしてボロ儲けをしているヤツは許せない」という心情があるのではないでしょうか。
そして、その裏側には「お金というのは一生懸命に働いて得なければならないものだ」という思い込みがあるように感じます。
ただしおそらく、「苦労することとお金が儲かることには、それほど深い関係はない」ものと思われます。
たった10分で作った曲でも、何億人もの人が感動すれば、その稼ぎは普通の人の生涯年収を軽々と超えることでしょう。
一方、どれだけ汗水垂らしてやろうと「意味もなく庭に穴を掘って埋める」ということを数え切れないほど繰り返したとしても、一円も稼げません。
要するに、どれだけ稼げるかは、自分以外の人がどれだけ喜ぶかにかかっているわけです。
転売屋が稼げるのは、人気商品を買えなかった人が買えて喜んでいるからです。
転売ヤーの実際
たぶんですが、「ノーリスクだし手間もかからず、とにかくものすごく儲かってしょうがない」などという転売屋は、ごく一部でしょう。
たいがいの人はリスクを取って、人気の出そうな商品をそれなりに分析して失敗の可能性も考えながら買ったり、時間や労力を使ってプレミア商品を手に入れたりしているはずです。
すごく稼げている人とて、「チャンスを巧みに手にした」とか「頭をうまく使った」とか、おそらくはそういうことなのではないでしょうか。
その裏側には失敗して沈んでいった人たちも、たくさんいるはずです。
そういった意味では、他の商売とさして違いはありません。
要するに反発している側というのは、うまくいったところだけを見て憎悪を燃やしている印象があるということです。
そんな感じの態度で、商品の量産が追いついて値崩れした場合などに損をしたら、「転売ヤー、ざまぁ!!!」と思って見ているのでしょう。
ほとんど存在していないボロ儲けを憎み、チャレンジして失敗した人を蔑むようなことを、彼らは本当にやりたいのでしょうか。
そこに「商行為自体への差別的感情」の匂いを感じるのは、ボクだけではないと思います。
そういった辺りの「おかしさをうすうすは感じていながらも目をそらしている現実」というのが、彼らがする「執拗な批判」とつながっているような気がしてなりません。
商売人が生み出している流れ
本せどりをすると、①本が買えた人、②手数料が取れたAmazon、③本を仕入れてもらった古書店、④本せどらーがそれぞれトクをする「四方よし」になるという話を、最初の方でしました。
そこで本せどらーという商人が生み出しているのは、「新たなお金の流れ」です。
地方の古書店で限られた人しか見込み客にならずに停滞していた状態から、Amazonへ出品し全国の人に売るように変えてやることで、存在していなかった「流れ」を生じさせたわけですね。
ご存知のとおり、「景気というのはお金の流れのこと」です。
血が流れないと人が死んでしまうのと同じように、お金が滞りなく循環しないと市場経済は死にます。
腕のいいマッサージ師がコリに悩む人の血流を促すように、社会に順調なお金の流れを生み出すのが商人の役目だと言えるでしょう。
ちなみに日本のような超高齢化社会が停滞しやすいのは、行く先が不安な働かなくなった人たちがお金を使おうとせず、景気が悪くなりがちだからですね。
一つ、例え話をします。
研究の過程で出てきた、何に使えるかは分かっていない特許を持っている技術者がいたとしましょう。
彼の技術が使える商品を思いついて、開発・宣伝・売却し、商人が10億稼いだうえで、そのうちの1億を技術者に渡したとしたら、どう思うでしょうか。
「もっとやれよ、ガメついな」と思う人も、いるかもしれませんね。
しかし技術者は、自分だけでは受け取れなかった1億円もの大金を商売人のおかげでゲットできたわけです。
このように「お金の流れ」を生み出す能力は、世に思われている以上に重要なものです。
商人に対する蔑みの半分以上はおそらく、自分にはない能力に対する「やっかみ」でしょう。
マッサージをやってもらったらお金を払うのに、お金の流れを生み出した人には払いたくないというのは、ものが見えていないからだと言わざるを得ません。
転売ヤーを生み出しているのは定価信仰の信者たち
ここまでの話から、じつは転売屋を生み出しているのは、定価信仰を持った信者たちであることが分かったかと思います。
流れ的には、こんな感じです。
- 人気商品が生まれる。
- 定価信仰の信者が文句を言うので、メーカーは希望小売価格を釣り上げない。
- お店も同じく振る舞い、希望小売価格で売る。
- 利ざやが生じる。
- 転売ヤーが買って、利益を得ようとする。
こうした現象の根底には、「自由経済社会では、人気商品の価格が上がるのを防ぐことは基本的にできない」という事実があります。
しかし定価信仰の信者たちは、メーカーや小売に希望小売価格での販売をするように暗に圧力を掛けています。
それによってメーカーの量産体制を阻害し、転売屋を生み出しているわけです。
おかしなことをすると、必ずどこかに歪みが出てきます。
定価信仰の信者たちは、その原因が転売ヤーにあると思っているようです。
けれども、そもそもの歪みを生み出しているのは、たぶん「定価信仰」の方です。
転売ヤーを駆逐し絶滅させる方法
ここまでの話を踏まえ、「転売屋を駆逐し絶滅させるさせる方法」について書きたいと思います。
賢明な読者の方々は、すでにお気づきのことかと思います。
つまり、その方法というのは「定価信仰の信者がその信仰を捨てて、メーカーや小売が人気の出た商品を高値で売るのを許容すること」です。
人気商品のそもそもの販売価格が上がれば、利ざやは消えます。
すると、転売ヤーが生き残ることは不可能になります。
「転売ヤー憎し」という皆さんは、ぜひこれを実現させましょう。
もちろん、信者の人たちが信じている「定価」で買うことはできなくなりますが。
いずれにせよ「暗黙のうちに希望小売価格での販売を強要する」というのは、言うなれば「因縁を付ける」と呼ばれる行為の類いのような感じがしてしまいます。
極めて前時代的で村社会的な、陰湿極まるやり口です。
そのようなあり方は、転売ヤーがやっていることよりもエレガントなのだと言えるのでしょうか。
ボクには、よく分かりません。
あるいは彼らがいまやっているのは、「以前は成り立っていた因縁の付け方がいまでは通用しなくなった」と文句を言って、ゴロついているだけのことなのかもしれません。
それが別の新たな「因縁を付ける行為」であることは、言うまでもありません。
結論:気に病む必要はない
「で?なんの話だっけ?」という感じかもしれませんね。
結局のところボクが言いたかったのは、「転売について批判的な人もいるかもしれないけれども、気に病む必要はない」ということです。
なりふりかまわずに利益を取りに行く転売ヤーに、ムカつく人たちがいるのも理解できます。
とは言え、これまでの話からも分かるように、批判する側もただ「自分に都合がいい感じの世の中じゃない!」と言っているだけ、という部分もあると感じています。
また一般的な本せどりについては「四方よし」ですし、仕入れ自体もそこまでの迷惑行為ではないという具合に思うわけです。
お店に利益をもたらしてはいるものの一般的な顧客とは違うため、他のお客さんや店員さんに迷惑がかからないように気をつければいい、というだけの話なのではないでしょうか。
偏見はどこにでもありますし、そこにあるのはたいてい「偏見を持つ側の問題」のみです。
人に命じられたものではない仕事を勝手に企てて、その結果を成功であろうと失敗であろうと受け取るのは、楽しいものですよ。
分かったような分からないような批判など気にせず、本せどりを楽しみましょう。
ボクはこんな風に感じたってだけのことだよ。特に「議論をするつもりはない」です、はい。